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南アメリカ旅行

1−ジャマイカ-新たな旅立ち

2−カリブ海-天国のような美しい海

3−ベネゼラ-初めての南アメリカ

4−コロンビアへ-雄大なアンデス

5−ボゴタへ-山あいの町や村

6−エクアドル国境へ-山また山

7−エクアドル-インカの末裔たち

8−熱帯の低地-むせ返る熱気

9−ペルー-砂漠を行く

10-リマへ-海沿いの道を行く

11-アルチプラノ-過酷な4000mの高み

12-ボリビア-冷雨と牧童たち

13-アルゼンチン
 北部山岳地帯を行く


14-豊かなパンパ、小奇麗な町美しい人々

15-サンチャゴ-アコンカグアの麓を行く

16-チリ-明るく、穏やかな人々

17-パタゴニアへ-湖沼地帯を越えて


18-マゼラン海峡にて-忘れえぬ人々


19-ブエノスアイレスへ

20-アメリカのビザ

21-ポサダスの週末の夜-そしてイグアス

22-ブラジルと日系移民-親戚を訪ねて

23-チチカカ湖東岸を行く

24-インカ道をマチュピチュへ

25-アマゾン川のバレーボール

26-コルディレラアスール
27-カリブ海へ

28-グァテマラ
サンパウロ

ブラジルと日系移民

サンパウロ

イグアスの滝から20Kmほど下流で幅100mほどの川を渡るとブラジルです。橋の上は双方の国へ向かって移動する人と車でごった返しています。入国手続きを終えるとブラジルです。川ひとつ隔てただけなのに、雰囲気がガラッと変わります。
一口で言いますと、アルゼンチンが整然としていたのに比べて、かなりまとまりの無いごちゃごちゃ感じがします。まず人種構成です。ほとんど100%が白人といった印象のあるアルゼンチンと比べると、実に雑多な人種が居ます。白人に加えて、黒人とその混血、それに東洋系の黄色人種も目立ちます。
何より、アルゼンチンでは全く見かけなかった子供の靴磨もいました。貧富の差が大きく、貧しい人々も多いからなのでしょう。町並みも、道幅が広く未舗装の赤土の上に、木造の粗末な家々が無造作に並んでいました。
ロンドリーナ経由でサンパウロに向かいました。途中、道の両側はコーヒー畑が果てしなく続いています。テラロッサの赤い道が続きます。点在する農家の家々はどれもこれもテラロッサで赤く汚れています。コーヒーの木以外何もかもが赤っぽく見えます。そんなアメリカの西部開拓時代をおもわせるような眺めがいつまでも続きました。
ともかく、ゆれるバスの乗り心地は快適そのものです。揺られていると疲れているわけでもないのにとろんとしてきますよね。女の子が話しかけてきました。スペイン語は少しわかるようになっていましたが、ポルトガル語は全く聞き取れません。それがわかったのか、ポルトガル語を教えてくれるというのです。いや、大きな口をあけてよくしゃべる元気の良い娘でしたが、そのうちそれが子守唄に聞こえてきて、私はいつしか寝入ってしまいました。
南米最大の大都会だけあって、サンパウロのバスターミナルはとても大きく、国の各地と往来する人々でごった返しています。アルゼンチンのような整然としたものは感じられませんが、何か急激に発展を続ける大国の活気のようなものがみなぎっています。大きな荷物を抱えて行きかう人々、物売りの女や子供たち、客引き。そんな中、大型のバスがひっきりなしに出入りしています。
街には高層ビルが林立しています。ニューヨークほどではありませんが、南米にこんな摩天楼があることが意外なほどの高層ビル群です。街を歩くと、日系人が多いことに驚きました。
街の一角に、赤い鳥居がある日本人街があることは、あなたもご存知ですよね。日系人=日本人と思って、思わず日本語で話しかけてしまいましたが、3世になると全く日本語は話さないようです。彼らはもう立派なブラジル人でした。

移住した親戚を尋ねて

サンパウロ訪問の最大の目的は親戚を尋ねることでした。実は、親戚がいることは日本を出たあとに知らされました。太平洋戦争以前に移住された方だそうです。親戚といってもかなりの遠戚に当たり、礼を失しないようにとそればかり考えて訪ねました。

親戚の家はサンパウロ中心からかなり離れた、閑静な住宅街にありました。その日はたまたま土曜日だったこともあり、子供さんやお孫さんたちが大勢遊びに来ていました。曜日もわきまえずいきなり訪ねたにもかかわらず、逆に大歓迎をうけてしまいました。ご挨拶だけのつもりだったのですが、ホテルを引き払いその後1週間もお世話になってしまいました。

大家族で、私と同じ年頃のお孫さんがいたこともあり、毎日楽しく過ごすことができました。当然の事ながら、その間移住されてからの苦労話を毎晩のようにお聞きしました。とても興味深いもので、何か大河もの的な壮大なドラマを聞いているような気になりました。
移民までの苦労、夢と希望。最初コーヒー園から初めたそうですが失敗し、しばらく田舎でパン屋をして子供さんを大学に行かせたそうです。その後、田舎の家を引き払い、息子さんがいるサンパウロに移ってきたのだそうです。

その間にはいろんなことがありました。最近のテレビコマーシャルの文句にもあるように、コーヒー園が霜で大被害を受けた寒い夏や、“勝ち組負け組み”に分かれて日系移民同士がいがみ合った戦争が、地球の裏側にもあったのです。希望に燃えて地球の裏側までやってきた日本人移民のかたがたが体験された、壮大な一生を身近で感じた一週間でした。

旅行中良く耳にする言葉に、“ジャポネギャランティド”というものがあります。日本人は信頼できる、といった意味なのでしょうか。世界中から来た多くの移民の中でも特に勤勉な彼らは、長い間の努力により周囲の強い信頼を獲得してこられたようです。日本人として誇りに感じました。でも、彼らはもう日本人ではなく、この地に太い根をおろした立派なブラジル人なのですね。

ある日、一番下の中学生の女のお孫さんのお誕生パーティーがありました。いや、大変なものでした。その日は朝から、20畳ほどの居間に派手な飾り付けをしてお友達を招かれました。午後遅く20人ほどのお友達がめいめいプレゼントをもってやってきました。彼、彼女らのほとんどは、少なくとも見た目日系人ではありません。白人系、黒人系の娘、様々です
。他の家族はみんなおじいさんもおばあさんも他の部屋にこもります。その後居間からは、大きな音量でビートの効いた軽快な音楽が聞こえてきました。居間をちょっとのぞいてみると、明かりを抑えた部屋では、カクテル光線のなかで、みな強烈なビートにあわせて、夢中で踊っていました。まるで、ディスコです。彼らがすでにブラジル人であることを意識させられた瞬間でした。

これは、ごく普通にブラジルの家庭で行われていることで、この家の娘が特別なのではないことを誤解なさらないでくださいね。
1世のかたがたは今、多くのお孫さんに囲まれ、敬われて日本の老人以上に幸せな余生を送られているようです。これまでのご苦労を思うと、良かったという思いとともに、これからも末永いお幸せを祈らずにはいられませんでした。

リオデジャネイロ

リオデジャネイロはとても美しい町です。コパカバーナやイパネマの海岸とパンデアスカーなどの奇岩からなる海岸線はもとより、キリストの像とその眺めで有名なコルコバードの丘などが織り成す美しい景観は他には類を見ないものでしょう。
そして何より、そのレジャーやスポーツ、音楽そしてナイトライフなど、人々の根本的な欲求に答えることに、特に熱心な街のように思えます。きっとあなたには充実した旅行が約束されていると思います。 つまり、私のような貧乏旅行者には、あまり居心地が良くないところかも知れません。
ただ、コルコバードの丘からの眺めが、圧巻だったことだけお伝えいたします。

小野田さん

さあ、これからまた北上です。ブラジルの東海岸ルートや、アマゾンのマナオス経由のルートもありましたが、マチュピチュなど、まだ見ていないところが沢山あるペルーを経由することにしました。
まずボリビア国境へ向かいました。サンパウロから列車でまる1日、起伏らしい起伏がない風景のかなを走り続けます。途中の街や村はテラローシャで赤く汚れています。赤土の上に粗末な木造の家が並んでいます。そこに開拓の厳しさとそれに賭けた人々の夢をを見たような気がします。
数十年前多くの日本人もそんな状況下でがんばっていたのです。成功した人は多いようですが、夢を果たせなかった人、病気や事故で若くして命を落とした人やその家族のかたがたも少なくないはずです。ブラジルは、多くの人々の夢を飲み込み、それを栄養にして発展してきた国なのですね。
途中カンポグランデという大きな町があります。その郊外のキロメ-トル53というところに、あの小野田さんが入植されたと聞いていました。そこにあるRestorante Nipponをたずねました。ご主人が小野田さんのお兄さんと親しいということで、面白い話も聞けるのではないかと思いました。小野田さん自身は、開拓の準備に忙しく、そのときサントスの港に日本からの荷物を受け取りに行っていて留守でした。
“Nippon” のご主人は恰幅の良い大変優しそうな方で、私のぶしつけな質問にも気軽におうじてくださいました。おまけに昼食ばかりか夕食もご馳走になってしまいました。久しぶりのおいしい日本食でした。ありがとうございます。
息子さんが最近沖縄のご親戚を尋ねたとかで、沢山の写真を見せていただきました。沖縄だけでなく、旅行された日本各地の写真も沢山ありました。それらを見ていたら、妙な懐かしさがこみ上げてきました。私には帰れるお金も無いし、帰りたいとも思わないのですが、久しぶりに日本が懐かしくなりました。
移住された方々のことが思われました。きっと、、、時に、、、、無性に帰りたかったことでしょうね、、、。
小野田さんとNipponのご主人、そして沢山の移民のかたがたのご成功と幸せを祈って、その町を後にしました。
*メモ:小野田さんという方は、太平洋戦争が終わったことを知らずに、終戦後30年間もグアムのジャングルのなかで一人、戦いを続けた方です。発見された当時は一躍時の人になりました。帰国後、知人の伝でブラジルに移民されました。

パンタナールと国境の町

カンポグランデと北のクイアバを結んだ線の西側にはパンタナールと呼ばれる湿地帯が広がります。日本と同じほどの広さがあります。半分以上が深い密林に覆われた湿地帯です。雨季には広い範囲が洪水に覆われるため人は住めません。
広いブラジルでも極端に人口の希薄なところです。それだけに他では味わえない野性味あふれる旅行や釣りのメッカになっているようです。シーズンにより移動手段やルートが大きく変わるとのことなので、行かれる場合は注意してください。また、どこでも同じことが言えますが、ガイドの選択時には第3者のアドバイスも有効です。

カンポグランデから、ボリビア国境の町コルンバまで、そんなパンタナールの中を通ります。道からはどこまでも果てしなく広がる広大な平原が見えました。
コルンバは、パラグアイ川が大きく蛇行した川岸の高台の上にあります。両側のやしの並木が美しい道を行くとやがて川岸の上に出ます。そこからはパラグアイ川とパンタナールに続く大平原が成す雄大な景色が眺められます。特に夕方は大平原が赤く染まりとても美しいものがあります。

12月〜2月は蚊がとても多いということなので避けたほうが賢明でしょう。“蚊が多い”ということは、経験しないとピンとこないと思いますが、一晩裸で外にいたら死ぬかもしれないほど多いのです。夕方には人が黒くふちどられるほど多くの蚊が寄ってきます。私はマラリアにかかったこともありますし、ジーパンの上からでもチクチク刺された経験から、とても怖いです( “嫌い”と言う意味ではありません。恐ろしいのです。)。

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