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南アメリカ旅行
23-チチカカ湖東岸を行く
24-インカ道をマチュピチュへ
25-アマゾン川のバレーボール
26-コルディレラアスール
27-カリブ海へ
28-グァテマラ
ブエノスアレス |
ブエノスアイレスへ
楽しかった日々は、はるか1000Kmのかなたへ。
プンタアレナスからプエルトモントまでチリ軍の軍用機に乗せてもらいました。定期的に飛んでいるもので、民間機と比べればサービスがまったくない代わりにとても格安です。
ただ、ここで飛行機を使うということは、少なくとも私にとってはここに何をしに来たのか分からなくなります。同じ北上するにしても、船を使えば南チリのフィヨルドのような、きっと絵のように美しい景観を楽しみながら、快適な船上生活が楽しめることでしょう。南極などと並んでこの辺での観光の目玉の一つですから。
でも、そのときの私には、旅をしようという気力が全くありませんでした。かつて自転車でアンデスを越えたときのような気概はありませんでした。
ここ南米の最果ての町で、思いがけなくも甘く、楽しい日々との出会いが忘れられず、そこをまた一人で去らなければならない辛さに、ただ打ちひしがれていました。その辛さから逃れようとすることだけで精一杯でした。
わずか2時間後、私はもうプエルトモントにいました。ついさっきまで夢でも見ていたように、半ば呆然として青い海を見ていました。もうあの町は、楽しかった日々は、南へ1000kmの、遙かかなたでした。
プエルトモント、リマで会った日本人
プエルトモントではあるチリ人の家を訪ねました。日本人だけは特別安く泊めてもらえる民宿のようなところ、と他の旅行者からきいていました。その家にはセニョーラと可愛い娘さんが2人います。私は一晩泊めて頂いただけですが、この家族と日本人との関係を色々と伺うことができました。
このご家族は、アジェンデ政権誕生とその後におきた軍部のクーデターによる混乱に翻弄されたようです。そのころ政治活動をされていた息子さんは、ある日から行方不明になったきりだといいます。またご主人もそのころ亡くなったようです。
そんな時、たまたま通りかかったある日本人旅行者が、そんな家族の窮状を知り、そしてその家族を親身になって世話をしてくれたそうです。またその後も、それを聞きつけた何人かの日本人が入れ替わりやってきては、トイレを作ってくれたり壁を直してくれたりと、何かと援助してくれたそうです。
その最初の日本人の写真を見せていただいておどろきました。半年ほど前、リマの宿でお会いした方ではありませんか。そのときは彼を、たくさんいる旅行者の一人ぐらいにしか思いませんでしたが、、、、。
そう、彼にはその人生を変えるような素敵な出会いがあり、ここ南米にはとても深い思い入れがあったのです。日本を出てからかなり長そうな彼、落ち着いた話し振りの陰に、とても熱いものがあったことをそのとき知りました。
先日彼から、つい先ごろそのセニョーラがチリで亡くなったことをおききしました。最近では日ごろ人生を投げたような言い方をすることもある彼ですが、そのときの彼の声は少し上ずっていました。きっと、地球の裏側でのことが、30年あまりの時を越え2万キロの距離を越えて、さぞや熱く想われたことでしょう。
パンパの中の鉄道の旅
サンチャゴからロスアンデスへ数ヶ月前に通った道を引き返してブエノスアイレスへ向かいました。国境を越へ、チリを後にするとき、その国で送った楽しい日々が思い出されました。そこでであったたくさんの人々のことが思い出されました。またいつか来れることを願って、ひとまずお別れです。
国境にはアコンカグアとアンデスの美しい風景を求めて、沢山の観光客がきています。彼ら、彼女らはアルゼンチンやチリの比較的裕福なかたがたのようです。
軽い食事をしていると、近くのテーブルのおば様方の一団に声をかけていただきました。彼女らは一様に派手な服装に、もともと派手な顔立ちにさらに強めのお化粧をされています。やや低音気味のお声とその堂々とした物腰から、それなりのお金持ちであるようにも思えます。気の弱い私は、彼女らの迫力に圧倒され、ただ小さくなっているだけでした。
聞けば、ブエノスアイレスから女性だけのグループでこられたそうです。必ず訪ねるようにと、ブエノスアイレスにある自宅の住所を押し付けるようにして、彼女らは次のバスでチリへ発ちました。
メンドサからブエノスアイレスまでは鉄道を使いました。広いパンパの変化の少ない風景を眺めて二十数時間、翌日の夕方、列車はブエノスアイレスにつきました。ここでもまだ、以前のやる気は戻っていないようです。
大都会、ブエノスアイレス
ブエノスアイレスは大都会です。当時の人口は3百万人、衛星都市を含めると1千万人以上です。人々がファッションに敏感な性でしょうか、街は南米というよりは西欧といったところです。この町の人種構成は100%白人といっっても良いくらいの印象があります。
人々の服装はもちろん、歴史的な建物、美しい通りや公園、そして劇場や映画館が軒を連ねているさまは、人々の感覚が洗練されており、人生を楽しむことに真剣であることをうかがわせます。もはや南米のイメージからは程遠く、ヨーロッパの生活先進国をおもわせます。
当時高度経済成長を謳歌していた日本ですが、この国はすでに、その先にある本当の豊かさを手にしたようにさえ見えました。確かに政治や経済は不安定です。さまざまな問題があり、いつなにがおきるかわからない国でもありました。
でも、モーレツ社員よろしく馬車馬のように働き続けている日本人と比べますと、この国の豊かさを感じずにはいられません。町の雰囲気人々の表情だけではなく、その店頭に並ぶ食材からは彼らの食生活の豊かさが思われます。
小さなレストランでも出てくるステーキは期待以上にデッカイです。酪農製品が大好物で、当時、食べる量では誰にも負けない、と変な自信を持っていた私には、この国の食事は最高でした。
ピザは発祥の地だけあって、ファーストフードのピザ専門店が町のいたるところにあります。レストラン(大衆)でもピザはメインメニューで、グループで注文する特大版のピザの大きさにはびっくりしてしまいます。上に載っているチーズもたっぷりです。あまりの量に、チーズは四分の一ぐらいが食べてる間に床に落ちてしまいます。ハムは安くて、味も最高です。それらが大好物の私は、もちろん心行くまで食べ歩きました。この国の人々がうらやましいですね。
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