ガイド
アフリカ旅行記
|
赤道を越えコンゴの熱帯雨林を抜けて
赤道を越えて南下するコンゴ川。かつてナイル源流を求めた探検家たちのはるかな夢やロマンがしのばれます。
キンシャサから続く悪路とそこに生きる人々。
コンゴのジャングルと熱帯植物園、ムバンダカ
5日目赤道を越えました。このところ天気が悪い日が多く、朝は寒いくらいです。本当に赤道なのかとと疑いたくなるほどです。程なくコンゴ川に合流しました。遠くに岸が見えますがそれは大きな島で対岸はずっと先、20Kmほど先とのことです。合流地点から100Kmほどコンゴ川を遡り、赤道を越えなおすとムバンダカに着きます。
この街は上流の都市キサンガニと首都キンシャサのほぼ中間点にあり、周囲を気の遠くなるほど深いコンゴの密林に囲まれています。街の中は良く整備されています。いたるところに、広い芝生に囲まれた花壇と散水器からの水でとてもみずみずしく清涼感が漂い、さながら町全体がボタニカルガーデンといったところです。コンゴの密林の中にこんな街が忽然と存在することが何か不思議な気がします。コンゴ川は上流のキサンガニまで大型船が往来しています。さすが水量がアマゾンの次に多い大河です。川が国の動脈になっているので、“密林の中”ではなく、この町は主要幹線道路沿いにあるということになります。
このような美しいところには何日か滞在したいものですが、貧乏旅行ではそうもいきません。あなたには是非、ここで密林の生活を堪能していただきたいと思います。
幸い教会に泊めていただけることになりました。バストイレつきの個室で、もちろん無料です。久しぶりにシャワーが使えてとても気持ちの良い時間を過ごさせていただきました。本当にありがとうございます。
リビングストンとスタンレー、ナイル源流とアフリカ探検
しのばれるのはアフリカの探検史です。特にナイル川の源流を求めて探検したリビングストンとスタンレーのことを思わずにはいられません。昔読んだ本からもらった感動は今でも忘れられません。コンゴ川の上流はルアラバ川と呼ばれています。探検ルートを南から北へ取ったリビングストンは苦難の末、そこにたどり着きました。ルアラバ川がすでに大きな流れとなって真北へ流れていることを確認して、それがナイルの源流であると確信しました。
彼はそれを確認できぬまま病に倒れましたが、その後彼の遺志を継いだスタンレーが、それを確認しようとルアラバ川を下りました。途中原住民の妨害にあったり、急流で多くの仲間を失いながらも探索を続けました。やがて、北へ流れていた川がその方向を西寄りに変え始めます。やがて西南に向かいギニア湾へ注いでいることがわかりました。リビングストンの予想ははずれましたが、その遺志を継ぐことにより他の大河の地理を明確にすることになりました。
今のように機動的な移動手段が無かった時代、アフリカを探検することは大変なことでした。スタンレーがアフリカ東岸のザンジバルを発ってからコンゴ川を下りきるまで、実に3年あまりかかりました。彼らの未知への探究心の偉大さに敬意を表さずにはいられません。自分勝手な解釈ばかりで申し訳ありません。是非本を1冊読むことをお勧めします。そしてできれば感動を分かち合いたいと思います。
朝日のスタンレープール、ブーゲンビリア咲くキンシャサへ
翌日首都のキンシャサへ向けてムバンダカを後にしました。かつてスタンレー一行が乗ったカヌーも通ったであろう同じ川を下っていることはとても光栄におもいます。暫くは海のように広かった川がやがてかなり狭まってきます。対岸がすぐそばに見えるようになります。4日目の朝急に川幅が広くなりスタンレープールに入ったことがわかります。やがて朝日を浴びて白く輝くキンシャサの街が見えてきました。
キンシャサは400万人の大都会です。街路樹やブーゲンビリアのような赤い花が印象的な美しい街です。大西洋と内陸部を結ぶ交通の要衝として、荷物の集散地として今も発展を続けています。ムバンダカもキンシャサもスタンレーが手がけた街です。コンゴ川はここから河口までまだ数百キロありますが、その間は急流のため船が通れません。その急流をスタンレーはリビングストンフォールズと名づけました。長居のできない私は、アンゴラに向かうというフィールキントと分かれて、南東部にあるキクウィットを目指しました。
南半球は雨季の終わり ぬかるみの道キクウィットへ
市場にとまっているトラックに当たってみたところ、キクウィット行きはすぐに見つかりました。翌日予定の9時に市場に行ってみると、現地の運転手さんが雇い主らしいベルギー人と何やかやと忙しそうにしていました。ベルギー人の見るからに高飛車な態度が気になりましたが、それが白人と黒人の関係なのかと、人を使うのはそうでなくてはいけないのかと理解することにしました。
結局トラックが動き出したのはそれから10時間後でした。いらいらしてもしようがありません。郷に入らば郷にしたがえです。あなたにもきっとその覚悟が必要ですよ。その夜はキンシャサの町外れで野宿となりました。
早朝5時、朝焼けの空に向かっていざ出発です。100Kmほどは快適な未知が続きましたが、それまでの道がうそのように急に悪路に変わります。今南半球は雨季の終わりのようです。道はぬかるみ、とうてい道とは呼べないひどさです。
車は時々スリップしながら苦しそうなエンジン音を立てます。薄暗い密林の中のこんな道を、これから600Kmも行かねばならないのかと思うと恐ろしい気さえしました。途中密林の中の急なくだり坂で、トラックが横転したばかりの現場に出会わせました。衣類や食品などの積荷がめちゃめちゃに散乱し、木陰には頭や足から血を流した20人ほどの乗客が、苦しそうにうめいていました。通信手段も無いこんなジャングルの中での事故は大変なことです。皆救援が来るまで数日ひたすら耐えるしかなさそうです。事故車から一人私たちの車に乗り込んだものの他の人たちはそのままにして、トラックはそこを後にしました。キクウイットに着いたのは翌日の昼近くでした。
粗末な家
運転手殿はそのまま私を自宅の昼食に招待してくださいました。もちのようなチュバという主食にコンビーフです。はじめての料理でしたが、とてもおいしく頂きました。しかし気になったのは彼の家です。正直とても粗末なものでした。狭い入り口、狭い部屋。白人と仕事をしている方が、これほどの家に住んでいることが理解できませんでした。雇い主の白人は皆大きくて明るい家に住んでいるのに、なぜ?と聞きたくなってしまいます。
昼食後彼は私を近くにいるアメリカ人の家に連れて行ってくれました。あまり押しかけたくは無いので遠慮しようとしましたが、聞き入れられず強引に連れて行かれました。英語で話ができるからというのがその理由のようです。本当に親切な方です。
徴兵制とアメリカ人カップル、パンとジャムに目玉焼き
そこは町外れにあって白く広いテラスがついた美しい家でした。若いアメリカ人夫婦が住んでいました。広い居間に通されお茶を頂きました。久しぶりに飲んだおいしいお茶でした。一緒に頂いたジャムとパンは久々のご馳走です。ご主人は甲高い声でよく笑う人でした。
なぜこんなところに住んでいるのか率直に聞いてみたところ、“Good question!”とまた甲高く笑います。ベトナムでの兵役に行く代わりに、政府からこのジャングルの奥に派遣されたのだといいます。そんな選択肢もあるものかと思いました。それだったら誰も戦争に行かないのではとも思いましたが、それ以上は詮索しませんでした。
彼らはアメリカ人らしくとても気さくで親切で、その晩は泊めていただくことになりました。その夜の知人宅でのパーティーにも誘って頂きました。2時ごろ彼らがそうするというので、私も昼寝させていただくことにしました。久しぶりに快適なベッドです。
ところが最初に目を覚ましトイレに立ったのが夜の8時ごろ、それから翌朝6時まで夕食もとらずにぐっすり眠りました。なんと16時間も眠ったことになります。相当疲れていたのでしょうか、それとも久しぶりのベッドがあまりに心地よかったからでしょうか。おかげで疲れがすっかり取れました。
朝食にパンとジャム、そして目玉焼きを頂きました。目玉焼きなんて何ヶ月ぶりかのご馳走です。それに奥さんに昼食も作っていただきました。ローストビーフのサンドイッチでした。思いがけないおもてなしに何度も心からお礼を言って、そこを後にしました。彼らの選択が正しかったことと、アフリカでの生活が実り多いものであることをお祈りします。
|