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北アメリカ滞在記

1、アメリカの入国ビザ

2、モントリオールへ

3、仕事は飲食関係

4、ハードワークは眠い

5、中華レストラン

6、ママと移民のバイタリティー

7、マウントロイヤル

8、南米への旅立ち


9、ニューヨーク へ

10、仕事は日本レストランで

11、お客はガッツ石松

12、バスボーイとスチュワーデス

13、車の運転免許

14、ありがとうニューヨーク

お客はガッツ石松


深夜のピアノバーに好条件の仕事を見つけました。
また土日は朝10時から深夜12時まで、タイムズスクエアーの近くでラーメン屋です。
不法滞在・不法就労という負い目を感じ、そして休日など無い仕事仕事の日々でしたが、
毎日が新鮮で楽しく、充実した日々が続きました。

ラーメン屋では、あのガッツ石松さんにラーメンを食べて頂いたこともありました。

ピアノバー

吹雪の中の仕事探しから数日して、夜中の仕事の話が舞い込んできました。時給がかなり良かったのですぐ決めました。ピアノバーです。名前のピアノではなくバイオリンとバンドネオンの生演奏をバックにしたカラオケを売りにしたナイトクラブと言ったところです。就業時間は夜の8時から深夜の2時過ぎまで。店の中は暗く、テーブルの上のろうそくとミラーボールの灯りでお客の顔がやっと識別できる程度です。仕事はウエイターです。ウエイターと言っても単なる飲食の世話係とは違います。店にはテーブルが7-8席あり、10数人のホステスがいますが、そのホステスたちを各テーブルにうまく配置することが最も大事な仕事でした。客は日本の商社員が殆どです。中にはお気に入りのホステスがいる方が少なくありません。また来店する曜日や時間帯も様々です。ホステスをそれまでのテーブルから外して彼女を指名した客のテーブルに付かせたり、彼女が抜けた分を他のホステスで埋め合わせたりします。客が多い時は、ホステスの少なさに苦情が出ないように、時々彼女らの入れ替えもします。まるでパズルを解くようでした。

 ホステスは日本人が6割であとは韓国や台湾人です。皆20代前半から30歳ぐらいまでの若い子ばかりで、その道のプロと言うよりも勉強や起業のための資金稼ぎが目的でやっているようでした。バーテンダーは画家志望、そのクラブのマネージャーもひとはた上げるべくやってきた若い日本人です。私がいた半年の間にも何人ものアルバイト要員が来ては去って行きましたが、皆写真家やミュージシャン、画家等を志望した若者でした。当時も、このニューヨークは多くの日本人の憧れの街だったようです。この深夜のピアノバーはそんな彼らの夢をささやかながら支えていたようです。
 バイオリンとバンドネオンの奏者はプロ中のプロで、若いころは世界中を演奏旅行されたということです。一時トリオロスパンチョスらと一緒に南米を回られたこともあるそうです。NYはだいぶ長いということでよく経験談を聞かせて頂きました。その、当たり前のことのように話される話の内容は、またしても驚くようなことばかりでした。東北の田舎では思いも及ばない熱い情熱と波乱に満ちた人生があった事にいたく感動したものです。

不法就労

もちろん、観光ビザで仕事をすることはアメリカでもどこでも御法度です。私がやっていたことは所謂不法就労というものです。犯罪でありいつ移民管理局に摘発されてもおかしくないのです。見つかれば逮捕され、簡易裁判の後国外への強制退去ということになります。実際、日本レストランへの抜き打ちの手入れはしょっちゅう行われていました。仕事中に、「○○レストランが手入れを受けた」という情報が入ると、心当たりの者は速やかに仕事を中止して早退します。泊っているホテルも安心できないので夜まで外で時間をつぶすことになります。もちろん、翌日からはいつも通り出勤します。使う方も使われる方も全て承知の承知の上のことで、何事も無かったようにまた通常の一日が始まることには、少しばかり驚きました。それは移民の国、数百万人の不法就労者がいる国アメリカの普通の出来事で、特に慌てる必要も無いけれども、もし見つかった場合には不運と思うしかないといったところのようです。
 実は、夜のバイト先のピアノバーは、昼間は名の知れた和風レストランの一部になります。ある晩私が出勤すると雰囲気がいつもと違います。その数時間前に手入れがあり、レストラン従業員で顔なじみの方を含めて数名が捕まったということでした。その後全員強制退去になったらしいことを風の便りで知りました。彼らの夢がどうなったのか気になりましたが、不運と諦めるしかありませんね。そんなリスキーさが私が資金稼ぎを急いだもう一つの理由でした。

ラーメン屋とガッツ石松

最初のころ週末は仕事がありませんでしたが12月半ばにそれが見つかりました。客席が10人分も無いほどの小さなラーメン屋です。土日の10時Amから夜の12時まで14時間勤務です。殆ど一人で担当させられました。メニューはラーメン3種類に餃子と焼き鳥に限定されていますが、昼時5人に同時に注文されたらほぼパニックですよ。しかも客の目の前で対応しなければならないのです。最初は御推察の通り、マスターの応援をもらっても本当に大変でした。でも、意外になんとかなるものですね。間もなく慣れました。ラーメンを茹で、焼き鳥をひっくり返しながら、餃子を皿に盛り付けながら、新たな注文を聞くのにもなんとか対応できるようになりました。客のほんの目の前で行うそんな気が抜けないやりくりを、むしろ楽しめるようにさえなったのです。ランチタイムが終わると、製麺機で麺づくりです。原料を練るところから始めて最後に細い麺が出来るまで意外と簡単だということは新発見でした。
 そう、夏も近いある日、黒いスーツに身を包んだ取り巻き数名の方と共にラーメンを食べに来られた方がいました。彼の顔はひどく歪みはれ上がっているように見えました。単なる観光客には見えなかったので、ラーメンの準備をしながらカウンター越しに「お仕事ですか?」と話しかけると、取り巻きの方から「ボクシングの試合だよ。」と返事がありました。そこで「勝ったんですか。」と聞くと、顔がはれ上がっている方から「この顔見りゃわかるだろー!」とどすの利いた声で憮然とした答えが返ってきました。ということで、当然それ以上話を続けるのは控えた次第です。それから数年後、日本に帰ってから、彼の名前がガッツ石松と言うことと彼がライト級の世界チャンピョンだったこと、そしてその時防衛に失敗したことを知りました。試合は残念でしたが、世界チャンピョンだった方にラーメンを食べて頂いたことは大変光栄なことで、その時のことは今では宝物の様な思い出です。時々テレビでお見かけするたびにその時のことを
懐かしく思い出しております。

 厳冬のNY

 1月〜2月は寒い日が続きました。モントリオールほどではないようですが、それでも日中の気温がマイナス20度を下回った日が何度かあったと思います。通りのあちこちから立ち上る白い蒸気を分けて、厚手のコートに身を包んだ人々が足早に行きかっていました。立派なひげの持ち主などはその息が凍って口の周りが真っ白になります。さらに凍った髭から何本ものツララを下げている方もいました。幸い私は、宿も職場も近くに地下鉄の駅があったので、それほど寒い思いをせずに澄みました。
 セントラルパークには池がいくつかありますが、その池も全て凍り付いて天然のスケートリンクになります。週末には大勢の老若男女がスケートを楽しんでいました。ロックフェラーセンターも宿に近かったのでよく行きましたが、冬場ここの一角も水を張ってスケートリンクにしています。多くの人で押すな押すなの盛況のようです。そしてそのスケートリンクから階段を上がったところに、日本でも時々話題になるあの大きなクリスマスツリーが立っています。夜になると本当にきれいでした。

大晦日のタイムズスクエアー

12月末から勤め始めたラーメン屋は、タイムズスクエアーから1ブロックも無いところにありました。閉店時、店の前にかけてある提灯を取り込む時、通りの先に見えるタイムズスクエアーはいつもまだまだ賑わっています。その年の大晦日はたまたま週末で、その日も私はいつものようにラーメンを作っていました。すぐ先のタイムズスクエアーはいつも以上に賑わっているようでした。私は14時間に及ぶ就労の後、さすがに少し疲れを感じながら閉店の準備をしていましたが、店の外に出た瞬間タイムズスクエアーの灯りがすべて消えるのを目にしました。異様な暗がりの中で歓声が上がり、ワーワーキャーキャー人ごみがうごめいています。そういえば、新年を迎える時タイムズスクエアーでは誰にキスしてもよいことになっている、ということを誰かから聞いたことを思い出しました。汚れた前掛けを付け赤い提灯を持ったまま、私はしばらく、歓声が聞こえる暗がりに目を凝らしていました。
 
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