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北アメリカ滞在記

1、アメリカの入国ビザ

2、モントリオールへ

3、仕事は飲食関係

4、ハードワークは眠い

5、中華レストラン

6、ママと移住者のバイタリティー

7、マウントロイヤルとサイクリング

8、南米への旅立ち

9、ニューヨーク へ

10、資金稼ぎは日本レストラン

11、お客はガッツ石松


12、同僚はスチュワーデス

13、車の運転免許

14、帰国はインド経由で

仕事


何のつてもない真冬の街で、また新しい生活が始まりました。
最初に始めた港での仕事は予想以上にきつく、わずか三日で辞めてしまいました。

氷の町モントリオール

空港を出た時、外はもう真っ暗でした。肌をさすような冷たい風が吹いています。あちこちには除雪した雪がうず高く積まれており、飛行機からみて想像した通り、ここがまだまだ真冬であることがわかります。さっきまでの入国の喜びもあっという間に消えてしまいました。すぐ次のハードルが待ち構えているのです。知人も無く、仕事のあてとてまったく無い町。資金もそう多くはありません。早く仕事を見つけなければならないのです。寒風の中で、この選択が間違いでなかったことをただ祈るだけでした。

 モントリオールの街は冬の真只中です。到着後しばらくは最高気温がマイナスの日が続きました。メインストリートでさえも歩道が厚さ10センチほどの氷で覆われています。歩いている人もあまりいません。これが100万都市の中心街とは信じられないほど人影はまばらです。仕事を探している身の上としては、活気がない町の雰囲気にその先行がますます不安になったものでした。

 でも、その人影が少ないという謎は直ぐ解けました。街の地下には巨大な地下街が有り、人々はそこを行き来して生活しているのです。地下街は明るくとてもにぎやかです。デパートやオフィスは全て地下でつながっていて、外に出なくとも殆どの用が足せるようあらゆる店が並んでいます。冬があまりに厳しいために、そこを生きるための必要性からそんな地下街が発達したのでしょうか。
因みに、イギリスからやって来た最初の開拓団数百人は、最初の冬を越せずに全滅したそうです。3月でも最高気温が氷点下の土地。その厳冬期の厳しさがいかほどか想像に余りあります。経験したことも無い予想外の寒さの中で凍えて死んでいった彼らの無念さが思われました。

港の仕事は凍えそう

 中心部から大分離れたマウントロイヤルの麓に安アパートを見つけました。仕事のことを考えるともっと中心部に近いところに住みたかったのですが、先の見通しの無い状況では、安さを優先せざるを得ませんでした。山の向こう側に行くと家賃はぐっと安くなるのでそこに決めました。中心部や港から遠いと言っても移動は自転車があれば十分です。来る南米旅行に備えて体力づくりも兼ねることができますので問題はありません。

 宿は決まったので、さあ次は肝心の仕事です。新聞や雑誌の求人欄を丹念に探しました。なんといっても不法就労(観光ビザで入国した者が労働し報酬を得ることは御法度。)なので長居は無用です。多少きつくとも短期に稼げる仕事でなくてはなりません。しかし当然のことながら、そんな勝手な希望に叶うものはそう多くはありません。先ずは求人欄でめぼしいものが見つかると片っ端から電話して面接を受けました。予想通り、最初から労働許可証を求めるところが多く、思うようにはいきません。

 やはり日雇いの肉体労働が手っ取り早いようでした。先ず港の工事現場の雑用にありつきました。全てが凍りついたような港でも何がしかの仕事はあるようです。見た目にはかなりきつそうでしたが、体力には少しばかり自信があったので「何とかなるだろう。」と、軽い気持ちで始めました。しかしながら、始めてすぐ、それが生半可な体力と精神力で務まるような仕事ではないことを悟りました。極寒の中での、屈強な荒くれ者たちとの力仕事は予想の倍ぐらいきつく、情けないことに3日と続きませんでした。そういえば面接に時、大柄の男たちの、珍しいものを見るような視線が気になりましたが、彼らは「この東洋人がいつまでも持つわけは無い」ということを知っていたのかも知れません。ともかく、身の丈に合わないことには早々に見切りをつけた次第です。

暖かい職場

 食費を浮かせるためにはやはり飲食関係です。次は軽食レストランにバスボーイの仕事を見つけました。港の力仕事と比べるとかなり安い報酬ですが浮いた食費を考えるとそれほどでもありません。レストランは3方ガラス張りで港や通りが良く見晴らせます。もっとも、見える景色はと言ったら、全てが灰色がかった寒々とした冬景色だけです。でもなんといっても中は暖かく、従業員も店主をはじめとして女性が多いので、あの荒くれ者たちと極寒の港の現場を考えると天国のようなところでした。

 仕事はバスボーイ。客が去った後のテーブルを片づける、いわゆる皿引です。昼時になると厨房はさながら戦場と化します。特にウエイトレスは自分の担当した客のサーブに必死です。そこでウエイトレス同士やコックとでなじりあいが始まるのです。早くしてくれのそれはこっちが先だのと大変なものです。もたもたしていると私たちバスボーイもそのとばっちりを受けてしまします。あそこをはやく片づけろ、そこのテーブルが汚いの、、と。そう、そういえばシュタットガルトのレストランも同じでした。ついこの間まで一緒に過ごした仲間たち、アケティやワサンタ、オスマンたちのことが懐かしく思い出されました。特に、既にアフリカへ旅立ったであろうテレサたちのことが、、、。
この街へやってきて10日余り。この間不安を抱えながら必死で過してきましたが、幸いなんとかやっていけそうな気がしてきました。気持ちにも少し余裕が出てきたようです。初めての北アメリカの街で、また新しい生活が始まったのでした。

初めてのチップ

 職場はマウントロイヤルを隔ててアパートのほぼ反対側、5Kmほどのところにありました。毎日自転車で通います。山裾を巻くルートと山を越えてショートカットするルートがありました。ショートカットルートの上りはかなりきついのですが、途中の高台から美しいモントリオールの町とセントローレンス川が見晴らせます。1日の始まりに見る景色としては申し分ありません。気持ちがスカッとし、やる気が体中にみなぎるのを感じます。山からの下りは緩やかで長く、、交通量の割には広々していて雪も少なかったので、毎日快適なサイクリングが楽しめました。
 チップという言葉は知っていましたが、ここで初めてその切実な意味を意識させられました。テーブルを片づける際、皿のわきに小銭が置いてあったのですが、忙しいこともありあまり考えずにそれを皿と一緒に持ってきてしまいました。ほどなく担当のウエイトレスが血相を変えて飛んできました。小銭は客がおいていったチップでした。ご存知の方にとっては当たり前のことだと思いますが、彼女らの報酬の大半は客がそのサービスに対しておいていくチップなのです。彼女らの生活がかかったものが無くなったのですから怒るのも当然です。でも、その時の私はチップに対する認識が希薄でした。彼女が何をそんなに怒っているのか理解するのに少し時間がかかったものです。激しいウエイトレスの抗議はなんとか店のオーナーが納めてくれましたが、知っているのと体験するのとでは大違いで、チップの持つ意味を身をもって体感した瞬間でした。
 仕事は楽ですが、やはりそれなりに安い報酬は問題でした。さらに悪いのは勤務の時間帯が変動する事で再度ビジネスが困難なことです。何か考えなければなりませんでした。
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