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北アメリカ滞在記

1、アメリカの入国ビザ

2、モントリオールへ

3、仕事は飲食関係

4、ハードワークは眠い

5、中華レストラン

6、ママと移住者のバイタリティー

7、マウントロイヤルとサイクリング

8、南米への旅立ち


9、ニューヨーク へ

10、資金稼ぎは日本レストラン

11、お客はガッツ石松


12、同僚はスチュワーデス

13、車の運転免許

14、帰国はインド経由で

アメリカの入国ビザ


アメリカへの入国ビザの発給は海外ではできないことを知りました。
何事もスムーズには行かないようで、行き先はカナダに変更せざるを得ませんでした。

もらえないアメリカのビザ

 シュタットガルトで何とか移動資金をつくることができましたが、南米旅行のための資金としてはまだまだ足りません。そこで、まず北米にわたり、話に聞くニューヨークで必要な資金を稼ごうと思いました。しかしながら、肝心のアメリカの入国ビザが下りなかったのです。
 まずフランクフルトのアメリカ領事館で入国ビザの申請をしました。ところが、日本人へのビザの発給は在日アメリカ大使館が担当しているので、ここではビザは与えられないとのこと。意外な展開に少しばかり戸惑いましたが、持ち前のいい加減さで、何とかなるさと最初はたかをくくっていました。

 ところが、ボンのアメリカ大使館でも同様の対応をされたのです。その後ハンブルグやパリなどでも申請してみましたが全く同じでした。さすがに少し焦りだしましたが、それでもまだ気持ちのどこかに"そんなはずは無い。何とかなるはず"といった希望がありました。

 しかし、それがただの幻想であったことを悟るのに時間はかかりませんでした。最後の希望だったロンドンでもやはり同じだったのです。必死に食い下がりましたが、担当係官の対応は冷たいものでした。楽天家の私にもやっと、アメリカ入国がそう容易ではないこと、ひょっとして不可能かもしれないことを理解したのでした。 一度日本に帰ってアメリカのビザを取ることも考えましたが、あれだけの決心をして出てきたのに気が引けました。何よりも手持ちの旅費が足りなかったのです。

花咲くロンドン

 ひとまずオーランドパークの近くの安宿に落ち着きました。安宿の情報は大概は口コミです。そこもボンのYH(ユースホステル)でアルバイトしていた日本人に勧められた宿です。シュタットガルトを出てからここまで10日余り、アメリカのビザを求めて精力的に動き続けてきました。でも、また一つ現実の厳しさを突きつけられて少しばかり疲れていたようです。その合部屋の隅にある粗末なベッドに横になると、それだけで何故かとてもほっとしたものでした。

 3月。ロンドンは花の季節です。広々したハイドパークやオーランドパークは緑が美しく、手入れの行き届いた花壇にはちらほら花も咲き始めていました。気温が高いだけでなく、久々の大都会だけに街中に燃えるような熱気が感じられました。
不安は残るものの、宿が定まると気持ちに少し余裕ができたようです。周りの風景にも目がいくようになり、ゆったりした気持ちで公園や通りの散策を楽しむことができました。また、つい先日までいた冬のシュタットガルトのことが、そしてそこで出会った多くの仲間とのあっという間に過ぎ去った日々が、とても懐かしく感じられました。

日本人の世捨て人

 ロンドンは外国人が目立ちます。黒人からアジア人まで見るからに多民族都市といった感じがします。日本人も沢山います。ビジネスマンだけでなく、留学生や旅行者そしてその中間の日本人も沢山います。私が泊った安宿にもいました。その中に見るからに旅が長そうな方がおりました。身の上話を聞きました。特に不満も無かったのですが勤めていた会社を辞めて旅に出たそうです。しかし今は目的をもって旅するわけでもなく、裏通りの暗い厨房の中で一日の大半を過しながら、ただ帰国後のことに漠然とした不安を抱えるだけの日々を送っているようでした。目標を見失ったのでしょうか、あるいは最初から明確な目標は無かったのかもしれませんが、漠然とした海外への憧れが彼らを動かしたのでしょう。

 当時日本は高度成長期で、海外旅行が夢でなくなりつつありましたが、外国は若者にとってはまだまだ遥かな存在でした。出かけるには相応の覚悟が必要で、引き換えに失うものも少なくありませんでした。そのため彼のように、それまで勤めた会社を辞め人生を賭けるような気持ちで貯金をはたき、片道切符でやってきた日本の若者が多かったのだと思います。(私もそのうちの一人ということになりますが。)そして、思い切ってやってきた欧米は、外国人に比較的オープンな土地柄からか思いのほか居心地が良く、旅費を稼いでいるつもりがそのまま長いこと住み着いてしまった方も多かったようです。そしてそこから新しいタイプの生き方が生まれ、各々が新しい青春を人生を創っていかれたことでしょう。

 幸か不幸か、私にはそのときささやかでも夢中になれる夢、憧れがありました。中南米旅行です。南米を自転車で縦断するということです。何が何でも行きたい、やりたい、という強い気持ちがありました。既に心は、アンデスの峰々やアマゾンの密林、そこで出会えるであろう人々のことでいっぱいだったのです。正直、当時の私はロンドン見物にはさほど興味はありませんでしたし、そこに長居する多くの日本人旅行者(?)の方たちの考えや気持ちが良く理解できませんでした。日本を批判するだけの彼らに反感さえ覚えたものです。

 でも良く考えると、そういう私自身も、反社会の学生運動に刺激されたのがきっかけで海外旅行に踏み切ったのでした。同じように海外にあこがれた者同士です。その時下した海外旅行という決断がその後の各々の人生の転機になったことはきっとみんな同じです。世界中を回って帰国したあと後ろ髪をひかれながら田舎でサラリーマンをするのも、行った最初の街にそのまま居つき、その土地で生きていくのも各々の人生です。私たちはみな、普通の若者が海外に目を向けられるだけの余裕が生まれ始めた当時の日本が生んだ同じ必然の産物だったのでしょう。

元気な日本人

 もちろん、元気な日本人は少なくありません。2度目のアフリカ旅行の後ドイツへ向かう途中、チューリッヒのユースホステルに立ち寄ったことがあります。そこである日本人旅行者に会いました。彼は他の旅行者の誰よりもいきいきしていたのです。これからの旅行について話す彼の言葉や表情には張りがあり、強い期待と大きな希望に満ち溢れていました。当時私は、1年近いアフリカの貧乏旅行で体力もお金も使い果たしてすっかり疲れ切っていたようで、それだけに彼がとても新鮮で眩しく感じられました。お〜っ!元気だなーっ!!こんな日本人もいるんだ、、、と。忘れていたものを思い出させていただきました。
 すっかり腑抜けになっっていた私は、彼と話すことでその元気を少し分けてもらったものでした。そして、南米旅行の資金稼ぎというやや高いハードルの向こうに、また大きな夢を見始めることができたのでした。当時すでにヨーロッパには多くの日本人旅行者がいました。みなそれなりの意気込みを持って渡航された方が多かったのでしょう、中にはそれが空回りしたりややオーバーランしているような方もいたようですが、総じて皆元気だった様に思います。

また、商社マンやプラント建設関係の方、また当時まだまだ少なかった海外報道番組制作のテレビ局の担当者など海外で仕事をされている多くの方々にお会いしましたが、みな一様に、経済成長著しい日本を背負っているといったような誇りと気概を持っておられたように思います。みんな元気があったんですね。 
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