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ヨーロッパ旅行記
これ以後は北アメリカの後にお伝えします。
17.3度目のヨーロッパ
ロンドンでバイク探し
18.バイク旅行
初夏のスカンジナビア
19.ワサンタとの再会
20.ポルトガルからトルコへ
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そのとき誘いを受けていたら、違う人生を歩んだのかもしれません。
日本からの便りはユースホステル宛て
12月も半ばを過ぎると、寒さが一段と厳しくなり、雪がぱらつくようなります。雪の量はそれほど多くはありませんが、日陰には何時までも白く残るようになりました。日曜日、久しぶりにYH(ユースホステル)に行ってみることにしました。郵便物の送り先をそこにしていたからです。
良く晴れた日でした。この辺はハンブルグと比べて、冬は気温が低い代わりに晴れる日が多いようです。中央公園に面した美術館の、あまり好きではない宗教画をなぜかのぞいた後、その裏手に入って池のふちを駅のほうへ向かいます。その池のそばには、いまでは文化ホールなどができているようですが、当時は何も無い静かな散歩道があるだけでした。
枯れた木立を通して中心部のビル郡が見えますが、ここは市民の憩いの場所です。夏場はきっと、老人にとっても恋人達にとっても、緑と池が落ち着いた雰囲気を創る素敵な場所になることでしょう。
駅を左手に見て右の高台の上にYHはありました。冬場、しかも昼間のYHはいつもひっそりしています。日本から数通の手紙がきていました。家族のこと、知人のこと、どれもこれも懐かしく、入り口のベンチに腰を下ろし、穴が開くほど読んだものです。
踊ろうクリスマスパーティー
12月20日、少し早いのですが、このレストランでは従業員とその家族のためのクリスマスパーティーが行われました。店を早めに閉めて、即席のステージでは生バンドの演奏が始まりました。私たちはスチュワードの指示に従い、勝手もわからぬままあっちへこっちへ走り回ります。椅子とテーブルを移動してダンス用のフロアを確保しました。またコックが総出でバイキング形式で料理を盛り付けます。
雰囲気は次第に高まります。やがて従業員の家族の方々もやってきました。その日非番のアケティも来ました。相変わらず美女を従えています。二人とも思いっきりめかしこんでいます。その柔らかそうで真っ白な帽子が印象的です。他の従業員も正装している者が多くなりました。イブニングの女性もいます。私たちは?粗末な私服に着替えただけです。正装なんて考えたこともありませんでした。
やがて、生演奏にあわせてダンスが始まります。全体が薄暗い中にカクテル光線がきらきらしています。老いも若きも慣れたもので、流れるような腰つきで踊りを楽しんでいます。そこで私は思いました、「俺もあんなふうに、何時か、イブニングの女性と踊ってみたいなー。」と。、、、、、残念ながら、今だにその夢は実現できておりません。
素顔のスチュワード
同じテーブルを囲んだのは、有色人種ばかりでした。飲みものは飲み放題、料理もいつもキャンティーンで食べているものとは全く違います。本人たちは結構それなりに楽しいのですが、周りから見るとあまりさえません。イスラム系はアルコールはご法度、インド系もあまり飲まないようです。アフリカ系はただでさえも賑やかなのに、アルコールが入ってまたかなり盛り上がっていました。
そこへいつも虚勢を張っている新米スチュワードがやってきました。ギターを持っています。自慢のYAMAHAだそうです。これからステージで演奏するんだそうです。日ごろの鬱憤から、最初「ナンダコノヤロー」と思っていたのですが、ここを辞めて音楽をやりにカナダのバンクーバーにいくんだ、、と話し始めました。
彼がどこに行こうが構わないのですが、その話方があまりに穏やかで、日ごろの彼のイメージとは相容れないものがありました。思えば彼と私たちは年齢もそう離れていません。彼はただ仕事に一生賢明だっただけなのでしょう。
彼の番がきました。ステージに向かう彼をみんなでにぎやかに送りだしました。
クリスマスイブの騒ぎとワサンタの失恋
12月24日、クリスマスイブは私が居た3ヶ月で最も忙しい日でした。私たちレストランの従業員はクリスマスどころではありません。わが職場も息継ぐ暇も無くまさに戦場でした。皿やグラスが飛び散り、積み上げた食器はけたたましい音を立ててくずれます。
狭い出入り口では、もって行こうとしたサラダが床に散らかり、ウエイトレス同士がお互いをなじりあっていました。スチュワードはまたここぞとばかりにワーワー騒ぎます。いやーッキリスト様はこんなことになっていることをご存知なのでしょうか。
そんなすさまじいクリスマスを終えてアパートに帰ったのは朝の3時ごろでした。帰ると暗い部屋の中の隣のベッドでワサンタがおきていました。何かしょんぼりしています。ヘレンのことを考えていたのだといいます。
クリスマス、世間が華やいでいるほどその陰で寂しがる者がいます。彼の場合ホームシックも重なっていました。
インド洋の青い波が打ち上げるセイロンの明るい海辺しか知らない彼にとって、寒くて暗い冬は、きっと異次元にでも来たかのように感じたのかもしれません。その夜(朝?)は彼の話をゆっくり聞いてやりました。
初めての雪
数日後まとまった雪が降りました。昼ごろから降り始めた雪は、見る間に町を白一色の世界に変えてしまいます。前の公園も真っ白で、夜になるとその街灯が幻想的な世界を作っていました。雪は夕方ピークに達した後、仕事が終る夜半前にはすっかり止みました。
仕事を終えた後、ウィリアムスとキャシーとワサンタとで公園に行きました。風が全く無く静まり返っています。踏み跡一つ無い公園は真っ白で幻想的です。それを見たワサンタは驚いたように声を上げました。そう、彼にとってははじめて見る雪景色なのです。恐る恐る雪のなかに足を踏み入れ、それをすくいとっては放り投げていました。冷たさを感じながらも初めての雪の感触を楽しんでいるようです。
そこで、彼に雪合戦を教えました。彼はすぐその楽しさを理解したようです。そのうち、みんなで雪だまをぶつけあい、雪の上を転げ周りました。楽しくて楽しくて、声を潜めようとしてもこらえきれずに笑ってしまいます。4人ともしばし子供に帰ったようでした。
そんな人気の無い深夜の公園でおきたことは、街灯だけが見ていました。
帰りの道(ケーニッヒシトラーセ)も滑ったり転んだりしながらワーワーキャーキャー。凍えた手を温めながらアパートに帰ったものでした。
ホテルマネージメントを勉強しないか
年が明けると、雇用期限の3ヶ月に達したワサンタはレストランを辞めて近くのアパートに引っ越しました。程なくアケティもやめました。彼はジュッセルドルフにいる知人を頼って行くといっていました。私もそろそろです。
そんな1月末のある日の深夜、仕事を終えレストラン内の明かりも大方消えた後、帰り際にスチュワードのフンメルに呼びとめられました。人気の無いバーのカウンターの丸椅子にかけて話を聞きました。
ホテルマネージメントを勉強しないかというオファーでした。2年後には年収・・万マルクで正社員として迎えるとのことです。最初当然のことながら面食らいました。何のことかも良く飲み込めませんでした。ひたすら南アメリカ旅行のことしか考えていなかった者に、そんなオファーがあるなんて、なんということでしょう。
特に何か目立ったことをした覚えもありません、、、、?ひたすら皿を洗って床を掃除しただけです。
その後数日考え込んでしまいました。そんなインタナショナルな環境下で仕事をすることはもともと私の理想の一つでもありました。様々な人々との仕事(皿洗いではなく、レストラン管理業務?)も面白そうです。少なくともその3ヶ月間、とっても楽しかったのです。
それにもう一つどうしても考えてしまうことがありました。そう1年前に別れたガービーとのことです。ドイツやスイスで仕事ができれば、またガービーに逢もえます。何時までも一緒にいることもできるようになるのです。条件も悪くありません。ついこの間まではまるで考えもつかなかった、私にとってものすご−く魅力的なオファーでした。
惑いと決断
でも私は長男です。いまどきの日本にはそんな“古臭い”ことを考える人はあまりいないのかもしれませんが、国の両親のことを考えるといつかは帰らなければならないと思いました。 それにまだ世界旅行も残っています、、、。
考えました。悩みました。考えれば考えるほどわからなくなりました。相談する相手も無く、一人数日悩み続けました。自分のことをそれほど客観的に見られたわけではありませんが、そのとき自分の人生が決まる一つの決断を迫られているような気がしました。
数日後、私がかなり辛い思いで出した決断は、それをお断りすることでした。、、、はい、、いわば情けない決断でした。チャンスにチャレンジする心の大きさや強い好奇心が無かったのです。ガービーへの想いもさほどではなかったということです。、、ハイ。
もしそのときオファーを受けていたら、こうして旅行記を書いたりしていなかったかも知れません。おそらく全く違う人生になったことでしょう。その決断が正しかったのかどうか?そんなことは、わかるものではありません。人間一つの人生しか経験できませんから。でも、もしまた同じような状況になったら、、、今度はそちらの人生を味わってみようかと思います。きっとそれはそれで間違いなくとても楽しいだろうと思いますので。
2月はじめ、お世話になったメーベンピックを後にしました。わずか3ヶ月でしたが、いろんなことが凝縮された時間でした。“拘束からの開放感”は全くありませんでした。それどころか、町外れで車を待っているとき、私の胸はただ、過ぎし時間と、その町で出会った人々への熱い想いでいっぱいでした。できれば以前のように、彼らとまた仕事がしたいと思いました。
でも、乗せていただいたVWの車窓から、広々したドイツの耕地が見え始めたころ、また新たな旅立ちを感じていました。やがて、また始まろうとしているの旅への想いが熱く大きく膨らんでいきました。
ヒッチハイクでロンドンへ。ロンドンから安飛行機でマドリッド経由でモントリオールへ向かいました。
モントリオールでは、南米旅行のための資金をさらに稼ぐことになります。
シュタットガルトには、その2年半後また訪れることになります。そのとき、ワサンタは元気に勉強していました。
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