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ヨーロッパ旅行記
14.皿洗いと職場の仲間
これ以後は北アメリカの後にお伝えします。
18.3度目のヨーロッパ
ロンドンでバイク探し
19.バイク旅行
初夏のスカンジナビア
20.ワサンタとの再会
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お別れ
ドイツに来て半年。いろいろありましたが、何とかまた旅に出られそうです。
でも、旅に出て最初の、辛い別れもやってきました。
クリスマスへの招待
数日後、ユースホステルでガービーからの手紙を受け取りました。デートの日取りです。クリスマス休暇中は何かと物入りだそうで、なかなか会う機会がありませんでした。
実は以前クリスマスを一緒に過ごすよう、彼女の家に招待を受けていました。でも断りました。なぜかって?理由は二つです。一つはもちろん商売が忙しいかもしれないと思ったこと。(結果的に24日も25日も休日なので商売はできませんでしたが。)もう一つは、その時、誘いを受けた時いっそう強く意識したのですが、自分に全く自信が無かったことです。明日をも知れないその日暮らしの身の上がとても恥ずかしくて情けなく、とても彼女のご両親に会う勇気はありませんでした。相手は厳格さで名高いドイツ人です。薄汚い東洋人の風来坊が歓迎されるはずもありません。
結婚ということを生まれて初めて意識したのもそのときでした。確かに考えすぎかもしれませんが、彼女のこと、自分のことを真剣に考えれば考えるほど、落ち込む一方だったのです。ドイツで生きていくことも考えました。でも、どう考えてもそんな力や資格が自分にあるとは思えませんでした。なんせ、学校にも行かず仕事もしないで、こんなところで詐欺まがいの針金細工売りをしている身の上です。国には両親もいました、、、。
それでも、次のデートの日は待ち遠しくてしようがありませんでした。すぐプレゼントを買いにいきました。散々迷った末に可愛い時計にしました。それほど高価なものではありませんが、そのときの私の全財産からするとかなりの額でした。どれにするか迷っている私の状況を察してか、あるいは単に商売上からかわかりませんが、そこの店員のアドバイスに助けられました。小さな包みを持って店を出たとき、、、何か、ちょっと変ですが、、、、少し誇らしい気持ちになったことを覚えています。
クリスマスプレゼント
クリスマスが過ぎたその数日後、久しぶりに彼女に会いました。天気はその日もよくありません。空気はいつものようにさすように冷たく、今にも雪が降り出しそうに、空はどんよりしています。でもガービーは相変わらず嬉しそうでした。寒さをものともせず、会うやいなや堰を切ったように話し始めました。クリスマスのことそして休暇中のこと、親戚がきたこととか、夜遅くまでおきていたことなど、身振り手振りを交えて目を輝かせて話し続けます。その明るく豊かな表情にはいつもながら見とれてしまいます。
私たちの足は無意識にいつものコースをたどっていました。水路沿いに進むとゆるいカーブのむこうに、いつものようにラットハウスが見えてきます。外が寒いこともありその日はラットハウスの中に入りました。中央のドーム状の天井からは明るい光が差し込んでいます。その下で家族ずれが町の立体模型に見入っています。
私たちは、壁際のベンチにこしかけてプレゼントを交換することにしました。彼女からは私の似顔絵と指輪です。似顔絵は、彼女があまりうまくないからなのか、モデルがそういう顔をしているからなのかわかりませんが、いまいちです。ともかく私が生まれてはじめてもらった私的なプレゼントでした。私からの時計のプレゼンとには少し驚いた様子でした。こんな場合のプレゼントにしては少し高価すぎたのかもしれません。慣れないものでいたし方ありません。でも、自分の気持ちをこめたプレゼントだけに、やっぱり少し誇らしい気持ちでした。
彼女からのプレゼントは、その後3年間ザックに入れられて、旅の道ずれになりました。
アフリカへ、旅の準備
クリスマスが終わったあとは売り上げががっくりと落ちました。年が明けてももう商売にはなりませんでした。どこでやってもほとんど売れないのです。
クリスマスイブの売り上げで何とか、アフリカにいける、、、、かな?というところまで来ましたが、資金が十分ということではありません。ただ、どうするのか決断する必要がありそうでした。このまま暫くがんばってもっと金を貯めるか、資金不足で苦労することを覚悟で旅立つか、、。雨季を避たいという自転車旅行上の都合もありました。いろいろと考えた末、即時アフリカ旅行を決行することにしました。出発は1月末と決めました。
レーパーバンの裏の安ホテルに1室かりて、新しい自転車や工具、スペアパーツなど必要なものをそろえていきました。部屋の壁にはミシュランの大きなアフリカの地図を貼りつけました。その地図は冊子状ではなく1枚物で、それが3枚でアフリカをカバーしています。広げるととても大きなものになり、情報量が多く、冊子には無い引き込まれるような臨場感があります。
その前に立ち、じっと見ているとやがて、そこを旅する自分が見えてきます。通り過ぎる町や村が見えてきます。平原やはるかな山並みも見えます。どんな人が住んでいるんだろう、、、どんな食べ物があるんだろう、、、、。飽きません。その後その地図を見るたびに気持ちがどんどん高ぶっていきました。
英語版のガイドブックを見つけたのでもう一度、基本的なところをおさらいしました。ビザは簡単に取れるか、予防接種は必要ないか、、。国境は通れるか。でもやはり詳細なところは現地に行ってからしかわかりません。急に国境がしまったり、あるはずの道が季節により自転車で通れるようなものでなかったりします。
それ自体は覚悟の上ですが、ただ今回は、お金にまったく余裕がありません。それだけ変化に対して適応力が弱いということになります。でも、行くと決めたらもう躊躇はありませんでした。日に日に気持ちがアフリカでいっぱいになっていきました。あとは持ち前のいい加減さで、何とかなるさと自分にいいきかせました。
自転車選び
毎日ハンブルグ中を歩き回りました。自転車もピンキリです。自転車屋を何件もはしごしましたが、財布を覗くと、とても欲しいものは買えませんでした。工具やその他の備品類も同じです。衣類なども最初はあれもこれもと考えましが、アフリカは暑いところだから何もいらないという結論になりました。購入費の制限もあり荷物は最小限にしました。“あると便利なもの”は持たないことにし、“無くてはならないもの”だけに絞ったのです。
衣類で新たに買ったものはありません。そのとき、タートルネックのシャツに、セーターそして厚めの内張りが着いたハーフコートを着ていました。セネガルに行く船の中でそのセーターは捨てました。シャツはネック部分と袖を切り落として自転車走行時用に改造しました。コートは内張りを切り離すと薄いウィンドブレーカー兼雨具になりました。、、、でも、やはり、今考えると少し変ですね。、、それだけお金が無かったのでしょうね、、、。
毎日地図とガイドブックを見ながら旅行ルートを検討しました。サハラ砂漠は自転車走行は困難なので、アフリカ最西端のセネガルのダカールを出発地と決めました。ということは、そこまでの移動費用がかかります。まずカナリアまで、とても安い飛行機が飛んでいるのでそれを使うことにしました。カナリアからダカールまでは船があります。それらを支払うと、ダカール出発時点で手元に残るのがなんと、、たったの500USドルでした!! いくら当時でも、1年間の旅行資金としてこれは全くすくなすぎました。
でも、、、、決行したのでした。
アフリカ旅行の詳細はアフリカ編をご覧ください。
その年の11月にふらふらになりながらも、何とか帰って来ることができました。
南はザンビア、東はケニアまで旅してこれたのは、ただ、アフリカの温かい抱擁力のおかげでした。
真冬のハノーファと最後のデート
1月半ば、準備がほぼ整った頃、その週末もハノーファーへ行きました。すでに彼女にはアフリカ行きを伝えてあります。その性でしょうか、最近の会話の内容は、そんな旅行にまつわるものや、世界のことに関するものが多かったように思います。アフリカ行きを話したとき彼女は、最初少し驚いたようでしたが、私の旅行をとても歓迎してくれました。一緒に喜んでくれました。自分も世界中を旅してみたいとも。
いつものコースを歩きました。途中から、とうとうふわふわと雪が降り始めました。彼女の真っ白なコートの毛の襟の上も栗毛の髪の上にも白いものが舞い降りてきました。もう1年も会えないことを意識してか、いつも以上に身体を寄せてくる彼女。「アフリカってどんなとこ?食べ物は、泊まるところは?気をつけてね?、、、」 ラットハウスへの道すがら、彼女はまたいろんなことを質問してきます。そんな彼女がいつも以上にいとおしくてなりませんでした。
実はそのとき私は重大な決心をしていました。でもそれを何時話そうか、切り出すタイミングを見出せずにいたのです。ラトハウスは雪の中でまたその重厚な趣がひときわ印象的です。デートする私たちはいつもラットハウスに見守られていたような気がしました。夏から秋そして冬と、わずか半年でしたが、この間彼女と会ったおかげで毎週のように楽しく夢のような時間をすごしてきました。そして、初めて体験した厳しい現実の中で、ともすれば失いがちだった夢や希望を、辛くも支えてくれたのも彼女でした。
お別れ
でも私はとても自分に自信を持てませんでした。後先考えずに突き進むだけの情熱がありませんでした。自分だけのことならともかく、相手が、いとおしい相手がいることです。彼女のことを考えたら、そんな生活を続けるような者と、それ以上深い関係を持ってはいけないのだと思うしかありませんでした。でも、彼女を前にすると何もいえなくなってしまうのです。
とうとうその日も北ドイツの早い夕闇が迫ってきました。彼女の帰る時間です。外は雪がかなり強くなっていました。電車どおりの周囲の建物は雪に煙り、哀愁が漂う北ヨーロッパがそこにありました。彼女は「向こうに行ったら手紙書いてね。」といいいます。私はこのままではけないと思い、「うん、、でも、、ガービー、私がただの旅行者だということは忘れれないでね。」というのが精一杯でした。でもそれで彼女には十分だったようです。唐突な、意外な言葉に、私の言いたいことを理解したようです。
あんなに明るかった彼女の表情がたちまち曇り、遠くを見るような瞳から大粒の涙が落ちてきました。私にはもうなんと言っていいのかわかりませんでした。電車が来ました。でも彼女は乗りません。そのままうつむいたまま立ち尽くしています。時々あげて私を見つめる顔は涙でぐしゃぐしゃでした。私は力を振り絞り、短い言葉で、彼女と一緒にいて本当に楽しかったこと、感謝していることを伝えました。そして、未練がましくも、また手紙を書くとも。 次の電車で彼女は帰って行きました。電車の窓越しにこちらを見ている悲しそうな彼女が見えました。そしてそれが彼女を見た最後になりました。
それから1週間後、私はハノーファー発カナリアはラスパルマス行きの飛行機に乗っていました。
乗客はすべてドイツ人です。暗く寒いお国を逃れて常夏の島でのんびり過ごすのでしょう。そこには日本人とは比べ物にならないドイツ人の豊かさがありました。そして、自分の決断が正しかったのだということを、早くも納得させられてしまったような気がしました。
*この後カナリアからセネガルに渡り、2度目のアフリカ旅行をはじめました。 数ヵ月後、ガービーにはガーナのアクラから手紙を書きました。精一杯の感謝とお別れの手紙でした。
2度目のアフリカ旅行が辛かったのは、金銭的な理由も有りますが、そんな傷心の旅でもあったからかも知れません。
ホームページ上ではお話が前後してしまいましたが、これはセネガルから始まった2度目のアフリカ旅行の前に、ドイツであったお話です。
その後のアフリカ旅行につきましては、アフリカ編をご覧ください。
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