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ヨーロッパ旅行記
これ以後は北アメリカの後にお伝えします。
18.3度目のヨーロッパ
ロンドンでバイク探し
19.バイク旅行
初夏のスカンジナビア
20.ワサンタとの再会
21.ポルトガルからトルコへ
ハンブルグ |
ハンブルグ
比較的涼しい北ドイツ、とはいえ季節は真夏。バルト海にも避暑客が。
そして岸の緑に囲まれたアルスター湖には、手漕ぎ足漕ぎのボートが日差しを楽しんでいます。
そんな夏を横目に、資金稼ぎの生活が始まりました。
ヒッチハイクでハンブルグへ
チューリッヒでやっと見つけた仕事が3日でクビになったからといって、落ち込んでもいる暇はありません。事態は急を要していました。チューリッヒはスパッとあきらめて、西ドイツ最大の都市ハンブルグに行くことにしました。大きな港があり、そこでの沖なかしの仕事なら、高給でしかも労働許可は要らないと聞いたからです。
バーゼルで国境を越えるとドイツでした。アウトバーンでヒッチハイクを繰り返した末、数日後、私は北ドイツはエルベ川を見ていました。
ハンブルグは大きな町です。当時東西ドイツに分かれていた時期は、西ドイツで最も大きな都市でした。ドイツ北部のエルベ川の河口から100kMほど上流にあります。ロッテルダムについでヨーロッパ第2の港があり、エルベ川は世界中からの船が行きかっていました。
*ハンブルグメモ
市域は、アルスター川東岸の旧市街と西岸の新市街、それらをとりまく地域からなります。旧市街は昔から商業地域の中心で、数多くの運河がながれています。町の景観の特色のひとつが運河にかかる橋で、アムステルダムとベネツィアをあわせたよりも大小多くの橋があるそうです。
そのほかの名所としては、港にかかる長いつり橋ケールブラント橋や、アルスター川をせきとめてつくった内アルスター湖と外アルスター湖、現在では旧市街をかこむ公園・遊歩道となっている古い市壁跡地があげられます。
歴史的な建築物としては、1897年に完成したネオ・ルネサンス様式の市庁舎、聖ペトリ教会(12世紀着工)、聖ヤコービ教会(13〜15世紀)、聖カタリーナ教会(14〜15世紀)があるます。作曲家メンデルスゾーンとブラームスの生地でもあります。特にゴシック様式の教会は、夕暮れのハンブルグの空に印象的です。
レーパーバーン通りにそって多くのナイト・クラブがならぶザンクト・パウリの歓楽街も有名です。その後よく商売をさせてもらいましたので、懐かしい場所のひとつになりました。
また、80カ国以上の国々の領事館がおかれ、ラジオ・テレビ放送関係の中心ともなっています。
ユースホステル、ドイツの我が家
ハンブルグ市の西部、駅から歩いて30分ぐらいのところにユースホステルがあります。ここが第一日目の宿泊所になりました。
ユースホステルの利用者にはやはり地域性があります。アテネのそれのように大陸間を移動する長期旅行者は少なく、夏休みを利用した短期旅行者がほとんどです。ただ、北欧との十字路的な位置にあるため、北欧からの旅行者も多いようです。広いロビーはそんな人々でいつもいっぱいです。ゲルマン系に多い、きれいな金髪に青い目の子供たちに加えて、真っ白な肌ですらっとしたスタイルの美しい、北欧からの女性も少なくありません。
ロビーの南側には、広い窓を持つ部屋があります。窓からは、すぐ下を流れるエルベ川と、広い港の全景が見渡せます。みんなここがお気に入りで、簡単な食事やコーヒーなどの飲み物で何時間もすごします。他の旅行者とも知り合える場所です。夜になると、港の灯がまた一段と美しく、私の気のせいでしょうか、窓際にはカップルが目立ちました。この場所は私も好きで、特に仕事にあぶれた時や少し落ち込んだ時などは、何時間も港を見てすごしたものでした。
その後の半年あまり、私にとってこのユースホステルは、ドイツでアットホームを感じる唯一の場所になりました。都合により他の場所で夜を明かすことはありましたが、事情が許すときはいつもここを利用しました。家族や友人からの手紙もここで受け取っていました。生活、活動の基点であり、いつしか心のよりどころにさえもなっていきました。
先年、出張で近くまで行った際懐かしさのあまり足を伸ばしてみました。25年ぶりでした。そのユースホステルは、以前と同じように、港の風景をバックに木立の間にひっそりと立っていました。近くの、ビスマルクの銅像がある公園から、それを見下ろしていると、当時のことがまるでついこの間のことのように思い出されました。
自分の家のように、何度も出入りした入り口は当時のままでした。、、何時しか想いはその入り口の先へと進みます。、、、いつも顔なじみの可愛い女の子が声をかけてくれた受付のカウンター。カウンターの横の壁には掲示板があり手紙や伝言メモが所狭しと貼り付けてあります。良くガービーからの手紙を探しました。それを過ぎると、もう一つのドアがありその先に広いロビーがあります。奥の談話室からは、以前のように広い港とエルベ川が見えるはずです。
金が無いのに、結構元気良く走り回っていたあのころ、、、そう、、いろんなことがありました。、、、いつしか熱いものがこみ上げてきていました。
手配士
ゆっくりしてはいられません。早速沖なかしの仕事をはじめました。といっても、状況はそう甘いものではありませんでした。
まず、早朝6時ごろに港の近くの所定の場所に行きます。そこにはすでに100人ほどの労働者が集まっております。彼らのほとんどが、トルコやモロッコ、ユーゴからの出稼ぎ労働者です。みんな一様によれた黒っぽい服を着、黒っぽい帽子をかぶっています。年代は40代〜50代が大半で、お国の家族の生活を一身に背負っている方たちのようです。
私がその中に入ると、新顔が珍しいのか、ひげずらの顔がこちらを向きます。何もわかりませんでしたしが、どうして良いかさへ気軽に聞けるような雰囲気でもありません。第一ドイツ語ができないのです。“モルゲン(おはよう)”というのが精一杯でした。
暫く待つと、次々に十台ほどの車がやってきます。手配士です。それまで待っていた男たちが動き始めそれぞれ手配氏のところに集まります。手配氏は数枚の紙に書いてある、おそらく仕事の内容と人員を読み上げます。ドイツ語なので、何を言ったかを聞き取ることはできませんが、まあそんなことでしょう。
私以外の人たちはみな常連なのでしょうね。当然彼らから仕事が決まっていきます。次々に車に乗って現場へ向かって去っていきます。そのとき初めて自覚したのですが、私のような新米に回ってくるのは、いわば残り物なのです。最低の条件のものだけなのです。また仕事がもらえないことも大いにありえるということです。まあ当然といえば当然ですね。
初日は、港ではなくある建設現場での雑用でした。仕事は港の荷おろしだけではなく、工事現場などでのいわば土方もあるようです。3時までで7000円ほどになりました。少しばかりきつい作業でしたが、このペースで稼げれば何とかなりそうなので、とりあえず一安心です。
沖なかし
翌日は港の仕事にありつけました。7時から3時までで1万円ほどです。待合所から数分歩いた桟橋で他の数名と一緒に小さなボートに乗せられました。ボートはエンジン音も高らかに早朝のエルベ川の上を進みます。
そう今は初夏です。頬をなでる早朝の空気はひんやりとして気持ちが良く、港のすべてがみずみずしく感じられました。
20分後、船は百何番とかいう名の埠頭に着きました。そこには大きな外国の貨物船が停泊しています。私たちの仕事は、船倉の荷物の上に降りて、そこの足元いっぱいに積んである荷物を、クレーンでつり降ろされてくるパレットの上に乗せることです。
なかなかの重労働です。パレットがいっぱいになるとそれは高々と吊り上げられ、船の外に出されます。すると休むまもなく、すぐ次のパレットが下りてきます。積荷の個々の箱は小さくとも、かなりの重量物が多く、腰をかがめての作業はなかなかのものがあります。私はこのとき腰を痛め、その後何度かひどい腰痛に悩まされました。
感心したのは、常連の働き振りです。やはりどの世界でも長年やっている“プロ”の方の力というものは侮りがたいものです。私よりも体が小さい年寄りといえども、そこはプロはプロでした。どこからそんな力が出てくるのか、その力強さに驚かされました。私も体力には少しばかり自信があったのですが、彼らについていくのがやっとで、引き上げるころにはもうへとへとでした。日当をもらい、帰りの船に乗るとほっとしたものでした。
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